背理法とモヤモヤ感
背理法ですが,まず,漢字表記から受けるイメージがよろしくありません.何しろ「理に背く」ですからね.実際,多くのヒトにとって,背理法との初対面の印象は,どこかごまかされたような,スッキリ感の持てない出会いとなっているようです.
さらに,背理法に首をかしげていると,数学を得意としているヒトからは「数学論理の素晴らしさにカンドーする」みたいな言い方をされることもあるようで,背理法を巡って、教室は2分されるかもしれません.
源流は算数に
背理法の源流を算数に見出すことができます.たとえば,割り算です.
Q ある数XをPで割ると,商Q,余りがRでした.このとき,必ず R<P となります.イコールも付きません.なぜでしょう.
一般式では,X=PQ+R(0≦R<P) ※ となります.
A もし,R≧P としましょう.
つまり,余りRが,割る数Pと等しいか,または大きい ということです.
すると,割り算が終了していない!ことになります.
これはおかしいですね.原因をさかのぼって探ると,R≧P としたことにあります.
よって,余りは割る数より必ず小さくなります.
なお,※ X=PQ+R(0≦R<P) ですが,数学基本公式の一つです.剰余定理・因数定理と直結し,代数学の土台をしっかりと支えています.
”たかが余り,されど余り”です.
背理法とは
背理法の定義には微妙な違いがありますが,あっさり形を紹介します.
あることがらが成り立たないと仮定して矛盾を導くことにより,そのことがらが成り立つことを証明する方法
例1 自然数nがあり,n2が偶数ならば,nは必ず偶数である.
証明:nが奇数と仮定する.このとき, n=2k+1(k=0,1,2,3,・・・) と書き表せ, n2=4k2+4k+1 =4(k2+k)+1 となり,奇数となる.これは, n2が偶数という最初の条件と矛盾する.よって, nは偶数でなければならない.
例2 あみだくじでゴールが重ならないのはなぜでしょうか.(本blog ‘21.7.5「あみだくじ,重ならない?」再掲)
図(左)のように,別々の縦線をスタートした動点P1●, P2●が,同じゴールに着いたとします.P1,P2が通ってきたルートを逆向きにたどってみます.
直前に通過した横線mでは,ともに同じ向きからmに入って来ています(∵仮にP2が別向きから来たとすれば,図(右)のようにmは縦線と交わっていることになりますね).
さらにその前の横線でも同じことが言えます.以下,このくり返しで,最後は,動点P1, P2は同一の縦線からスタートしたことになり,これは,仮定に反します.
よって,P1, P2が重なってゴールすることはあり得ません.
以上の2例は比較的,ナットク感のもてる内容ではなかったでしょうか.次はどうですか.
√2:無理数の証明
背理法と言えば,「√2が無理数である」の証明が有名です.
※1 有理数・・・分数形で表せる数,無理数・・・有理数でない数
※2 近年,背理法によらない意外な証明も知られるようになりました.ご存じでしたか?
<証明の骨子>
① √2=q/p(既約分数)と仮定する(※既約分数と「p,qが互いに素」は同じ意味)
② 平方した後,倍数関係から,p,qがともに偶数であることが示される
③ この結果は,①の既約分数という仮定に反する
したがって,√2は有理数ではない.つまり,無理数である.
<モヤモヤ感>
(1) 有理数でなければ,無理数なのか?その他の数があってもよさそうな気がする.
(2) 勝手に既約分数と決めておいて,その些細な”既約”個所と合致しないからといって,仮定全体が否定されるのか?
(3) 直接証明ではなく,間接証明なので,どうしてもストンと墜ちない.ズルイ!という感じがしてならない.隔靴掻痒(靴の上から搔く)とはこのことだ.
モヤモヤ感1 ⇒ 排中律
排中律(ハイチュウリツ)は,基本論理法則の一つですが,背理法に対するモヤモヤ感の一つに,この排中律確認の”不徹底さ”があると考えています.
排中律とは,命題Pについて,
「Pであるか,非Pであるかのいずれかであり,その間はない」
という約束です.
(注)排中律を認めない論理もあるが,学校教育の数学は「認める」論理です.
刑事ドラマで,容疑者AとBが刑事に追い詰められました.ここで,Aのアリバイが証明されたとします.でも,即,Bが犯人だと断定されません.なぜでしょう.
ここが,日常と数学の世界が決定的に異なるところです.
まず,A,B以外に犯人がいないという証明は極めて困難です(極端な話,ウイルスだって犯人になり得るワケですから).また,Aのアリバイが証明されてもリモートで犯罪行為がなされる可能性もありましょう.
日常の中で「排中律」と出会うことはメッタにないのですが,すべてを単純化した数学の世界ではありふれた光景です.
「√2が無理数」の話に戻ります.
実数 a は,{有理数 か 有理数でないか}のいずれかで,排中律により,その間はありません.
そして,有理数でない数=無理数 でしたので
実数aは,{有理数 か 無理数} のどちらかとなります.⇒ ここがpoint!
ここで,√2 が無理数でない ,つまり,有理数であると仮定します.
(以降,略)
モヤモヤ感2 ⇒ 矛盾律
矛盾律も基本論理法則の一つです.
「Pであり,同時に,非Pである」ことはない
”Pであり,同時に,非Pである”・・・この個所を矛盾といいます.そして,ひとたび矛盾が示されると,それまでの論が矛盾律により否定されます.
<あみだくじの例>
ゴールで重なるとすれば,出発の段階から重なっていたワケで,これは,別々のくじを引いたことと矛盾します.よって,ゴールが重なることはない.
このように,矛盾が単純明快な場合はよいとして,論理が複雑で記述が長くなると,「これは矛盾だ!」と指摘されても,全体像の理解が及ばないことが,しばしばあります.
√2:無理数 ⇒ 再確認
第一に,√2は,無理数か有理数か,のいずれかであって,その他のケースが入る余地はない!ことを徹底しましょう.⇒ 排中律!
第二に,√2=q/p (既約分数)と仮定して,矛盾を示すのですが,その示し方に工夫が必要です.
計算を進めると,p,qが偶数であることが導かれ,これは,”既約分数”と仮定したことと矛盾する・・・・・モヤモヤ感の核心部分かと思っています.
実は,q/pが既約分数であるか,否かは,本質的ではありません.
既約としないで論を進めると,やはりp,q ともに偶数が示されますので,P=2P’, q=2q’ と置けます.それがくり返され p’,q’ が再び偶数となります.すると,偶数/偶数の形が永遠に続く・・・.そのような分数q/pは存在しませんので,背理法が成立します.
つまり,分数の既約性ではなく,「√2 を分数形式q/p と仮定する」こと自体が矛盾の大元なのです.
まずは「√2=q/p 」と仮定して,ドロ臭く論を進め,一応ナットクした上で,「√2=q/p (既約分数)」とすると,矛盾の示し方のスマートさが再認識できます.
多少,時間がかかっても,”背理法”を学習者の「敵に回さない」工夫を重ねたいものです.
<補足>
■ 次回テーマは,「意外な確率」(予定)です.確率も好き嫌いがハッキリしますね.
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有理数を「既約分数」として仮定するところ、わたしも最大のもやもやです。同感です。
一般に「勝手に作った仮定」に矛盾が生じても背理法で証明できるということの説明をお願いします。
否定する命題の仮定や結論と矛盾するというならまだわかりますが、それ以外の自分で作った仮定でもそこに矛盾さえ出せれば、証明できるというのが、感覚的に納得できないでいます。
ののじ様
同じような思いをされている方と出会えてうれしい限りです.
背理法で論を立てる際,仮定が出題文中にある条件等に含まれている場合はよしとしても,解答者が外からもってきた(→「勝手に作った」)条件を背理法の成立根拠にするのは,すっきりしないという主旨ですね.
本問についてですが,有理数でない数⇔分数形に書けない数 ですから,√2を分数形に書ける と仮定します←ここまでは,出題文説明に入ります
すると,blog中で説明したように,√2が分数の形で永遠に書き続けられることになり,このような分数は存在しない,という矛盾を示したワケです.
しかし,「永遠に続く分数」が矛盾だとすること自体がスッキリした論になっているかと問われると疑問は残ります.
そこで,(どなたか分かりませんが)、仮説を √2=q/p(既約分数)とすると,この「永遠」を避けることができます,
実に,巧みな条件を付けたものと感心した次第です.
「3/5=12/20=15/25・・・のように,『ある分数』だけでは無数の表示ができますが,既約とすれば3/5 に一通りにピシッと決まる」※
⇒本問に限っては,「既約」の条件は,本出題文の中には含まれていないものの,既約分数の性質はこれまで認められてきた数学上の「真理」(承認事項・約束事)なのでしょう.これは,出題文にある・なしを問わず,仮定にすることができる
以上です.ご検討方よろしくお願いします.